嘉永6年(1853年)6月、ペリーの米国艦隊が浦賀に来航。この時、龍馬は江戸にいた。北辰一刀流の千葉道場で修行中だったが、ペリー来航によって、急遽、土佐藩臨時御用として品川海岸警備に就いている。そして、翌年6月に帰国、11月に河田小龍と会い、ジョン万次郎の話を聞いている。同じ頃、弥太郎は、江戸にいて混乱する幕府の様子を見ている。 生まれた年も近い、二人の龍が、同時期に江戸に出ているのも面白い。同じように、時代の荒波に巻き込まれながら維新の時代を駆け抜ける二人だが、選ぶ道は異なる。それでも、龍馬と弥太郎を結ぶ運命の糸は強く、後年、長崎で出会った二人は意気投合したと伝えられている。土佐藩において、二人を結んだ人物といえば、やはり後藤象二郎だろう。後藤象二郎といえば、龍馬と共に薩長同盟、大政奉還に尽力した人物だが、土佐藩内においても産業振興などで活躍している。弥太郎を高く評価したのも吉田東洋の少林塾(鶴田塾)で机を並べた後藤象二郎だった。

梼原の脱藩ルートには案内表示が整備されている。また、地元のボランティアガイドによる脱藩ルートを歩くイベントも随時催されている。

文久元年(1861年)8月武市瑞山が江戸で、薩摩の華山三円、長州の久坂玄瑞などと提携を約束、土佐勤王党を結成。そして9月に帰国、龍馬もこれに9番目に血判加盟している。しかし、龍馬は翌年3月24日沢村惣之丞と共に脱藩。この時、龍馬28歳。 龍馬はぐずぐずと春雨の降る夕刻に出発している。真っ直ぐに西に向かい、仁淀川を渡り、佐川から朽木峠を越え葉山に入り千屋家で休息し、ここから、一気に急峻な峠道を登り四国山地へと向かう。そして、ようやく檮原の那須信吾邸で一息つく。 この脱藩の道は、龍馬だけではなく、数多くの維新の志士たちが辿っている。つまり、この頃、志士のサポーターネットワークが完成していたと想像できる。と言っても、脱藩が容易だった訳ではない。当時の土佐藩内は混乱を極め、龍馬脱藩の直後に参政の吉田東洋が暗殺されるという事件が起きている。つまり、一触即発という状況だった。今日、その道を辿ってみても、当然ながらそうした緊張感は微塵も感じられない。龍馬も眺めたかもしれない山間の棚田が、往時の不便ながら豊かな営みがあったことを想像させるだけである。

龍馬脱藩後の活躍は、小説や映画などで周知の通り。弥太郎も江戸、長崎などで悪童で天才という本領を発揮しながら幕末の混乱などには頓着せずに、着実に自身の進むべき方向を定めていた。  そして慶応3年(1867年)3月14日、龍馬と弥太郎は長崎で出会っているっている。この後、龍馬の脱藩罪は赦免となり、亀山社中は土佐藩の海援隊に改められている。残された時間は、僅かだったが、二人で酒を酌み交わした記録も残っている。
梼原から脱藩していった志士は数多い。
維新の門の群像は、まるで舞台のワンシーンのように見える。
津野町の明王寺薬師堂開帳日に奉納される大わらじ。一帯の魔除け祈願のシンボル。ここから、山はさらに深く、道は険しくなる。
佐川から朽木峠を越えた龍馬は、この神社近くの千屋家で休息している。
檮原ゆかりの六志士、吉村寅太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の墓。
文久元年に土佐勤王党に参加、文久2年脱藩。王政復古を目指した志士。
往来する旅人を接待する茶堂は、古くから一帯に数多く見られた。龍馬もここで、休んだかもしれない。
市町村データ
梼原町(ゆすはらちょう):豊かな森の恵みを町づくりに活かす
檮原町 檮原町  
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