海の借景庭園と言えるほど美しい浜。
浦戸城址とは遊歩道で結ばれている。
不滅の人気を誇る観光スポット。
この場所は、幕末期に砲台が設けられた所。
龍馬が勤務したという記録はないが、
龍馬の父直足がここに勤務していたという話は残っている。

龍馬が生まれた時、父直足は39歳、母幸は38歳。そして、長男の権平は21歳、長女千鶴は19歳、次女栄は12歳、三女の乙女は4歳だった。祖母も健在だった。ここに、間もなく龍馬の乳母のおやべが加わる。坂本家は郷士という身分だったが、本家は藩内でも一、二を争う豪商として知られている。今日、高知城の西、国道沿いの龍馬の生家跡には碑を見るだけだが、一帯が本家の才谷屋と坂本家の屋敷だったと伝えられている。
龍馬は、母幸が龍馬を産んで間もなく病床についたため乳母の手で育てられている。広い屋敷、年齢の離れた兄姉、病弱な母親、実直な父、厳しい祖母、そしてやさしい乳母。それらを並べて想像をたくましくすれば、泣き虫龍馬は自然に浮かび上がってくる。10歳を過ぎても夜尿症が治らなかったという言い伝えも、つい納得してしまう。歴史上で非凡な才能を発揮する人物にありがちなエピソードとも言えるが、それでも、龍馬がただ甘え放題に育った泣き虫だったとは考え難い。

毎年聖誕祭が開催されている龍馬ファン必見の地。近くに「龍馬の生まれたまち記念館」があり、周辺のボランティアガイド(無料)を依頼できる。
龍馬も泳いだと伝えられる川。高知市の中心を流れる川だが、その流れは美しく鮎などの魚影も濃い。
鏡川沿いの屋敷跡は、今も往時の雰囲気を色濃く残している。龍馬生家も近い。

龍馬の母幸が他界した年、12歳の龍馬は小高坂の楠山庄助の塾に通うが、すぐに退塾している。原因は喧嘩。喧嘩は結果的に龍馬が勝利しているのだが、それまで甘えん坊で泣き虫の龍馬が、なぜ喧嘩に勝てたのだろうか。そもそも泣き虫が喧嘩をした理由も分からない。一般的には、偶然喧嘩に勝ったことから龍馬は自信を得て、大きく性格まで変えていったとされているが、それは、あまりにも乱暴な結論のような気がする。後に発揮される龍馬独自の感性や才能は、坂本家の中で培われたと考える方が自然だろう。龍馬は、後年、日本中を駆け回りながら歌を詠み、一弦琴や月琴をつま弾き、グルメぶりを発揮したかと思えば、諸葛孔明を彷彿とさせる策士ぶりを発揮している。これらは、龍馬の祖母が教養豊かな人で和歌を得意としていたこと、そして、家族で歌を詠み、一弦琴を習っていたからこそと言える。また、女性に囲まれ影の薄い父直足だが、この父は書を嗜む文人であり、弓と槍は免許皆伝という武術に優れた人物だった。さらに、グルメの話では、坂本家では、大名の家と同様に鯛の尾頭付きを片身しか食べなかったという話もある。
ただ、ここまで書くと、司馬遼太郎の豪放な龍馬像を壊してしまうような気もするが、こうした坂本家の教育があったからこそ、後年の龍馬があったという気がする。改めて言うまでもなく、幕末維新という時代において、龍馬ほど多くの人間に愛された人物はいない。全てを超越したような魅力は、やはり龍馬の育ちの良さに起因していると思える。

永福寺から徒歩5分ほどの山中にある。坂本家一族の墓の他、井口事件の関係者の墓などもある。
龍馬の屋敷は現存していないが、この武家屋敷と同等の規模、造りではなかったかと思われる。
少年時代の龍馬を偲ぶことができる記念館。生誕地の南にある。
山内家下屋敷は、龍馬の生家から鏡川を少し下ったところ。山内容堂と西郷隆盛の会見もここで行なわれてる。屋敷は現在ホテルになっているが、長屋門は、往時のまま保存、公開されている。
坂本龍馬の総合情報センターとして知られる記念館。この場所は長宗我部氏の浦戸城址。
龍馬と乙女が川島家を訪ねるために舟を漕いだところ。現在、はりまや橋の東の堀川から観光遊覧船が運行している。

龍馬は、楠山塾を退塾となって、しばらくして、家に近い日根野道場に通い始める。ここで、龍馬は剣法、居合い、槍などを学んでいるが、龍馬は強く、間もなく相手となる者がいなくなったとも伝えられている。しかし、龍馬が腕を自慢したという話は一切無い。龍馬は自慢話に照れる。それは、龍馬の手紙などからも読み取ることができる。龍馬の手紙と言えば、手紙のエピソードに多く登場する乙女は、やはり、少年龍馬に大きな影響を与えた人と言えるだろう。ただし、龍馬を厳しく育てた男まさりの「乙女ねえやん」というだけではない。乙女とは、唯一年齢が近いことから、共に行動した時間も長い。母幸が他界した後、直足は後妻を迎えているが、龍馬と乙女は、この継母の実家の川島家を度々訪ねている。川島家は御用商人の回船業を営む家で、浦戸湾の入り口、桂浜の対岸にある。龍馬と乙女は小舟を漕いで赴いているが、たっぷり1時間ほどかかったのではないだろうか。想像をたくましくすれば、ここが、海と龍馬を結ぶ接点で、始まりと思える。しかし、それは単なる想像の域を出ない。それでも、後の龍馬の女性に対するフェミニストぶりは、乙女と行動を共にする中で形成されたことだけは間違いないだろう。その乙女から卒業するのは、龍馬16歳の時。龍馬は、普請役として中村の四万十川の河川工事を任されている。この中村に「龍馬の下で働くと疲れる」という話が伝えられている。それは、龍馬が人を使うのが上手く、つい乗せられてしまうという話。もちろん、嫌われていたという話ではない。愛されていたというエピソードである。人望のある16歳。坂本家を離れ、乙女を卒業して、初めて出会った人々の評価である。脚色の余地も無い。そして、この評価は、生涯変わらない。つまり、これが龍馬の素顔ということだろう。

碑は公園内にあるが、実際は写真右奥あたり。瑞山は嘉永2年(1849年)、ここに道場を建て、住居としている。土佐勤王党の拠点でもあった場所。
土佐藩の産業振興の中心拠点。岩崎弥太郎も一時、ここに勤務している。
高知城追手門の近くにあるある土佐藩の藩校跡。岩崎弥太郎は、ここでジョン万次郎の講義を受けている。
高知城の西、上町5丁目の北にある寺。上士と郷士の殺傷事件「井口村事件(文久元年・1861年)」の舞台。この事件を発端に土佐勤王党が結成されている。
はりまや橋の東。龍馬は、ジョン万次郎の調書を執った小龍を訪ね、西洋事情を聞いている。
市町村データ
高知市(こうちし):人口30万人を有する高知県最大の都市
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