国道沿いの公園の一画に立つ晩年の弥太郎の像。日本郵船も弥太郎の事業と知っている人には、像の後ろの郵便局のマークが気になる。公園の北は田園地帯、南の海沿いの商業地は、かつて広大な砂丘だった。




タイトルに龍馬と弥太郎と並べても、岩崎弥太郎について詳しく知らないという人が多いのではないだろうか。高知県内に限ってみても、三菱財閥の創始者ということは知っていても、幕末の活躍はあまり知られていない。では、弥太郎の故郷の安芸市ではどうだろう。これは当然かもしれないが、弥太郎の人気は高く、その母親のエピソードまで語ってくれる人も多い。
弥太郎が生まれた安芸は、山内氏の土佐入城以来、家老の五藤氏の領地。五藤氏は、よくこの地を治め、経済、文化の発展に貢献しているが、弥太郎の人気を凌ぐことはできない。弥太郎の家は地下浪人(じげろうにん/郷士の株を売って浪人となった者)という身分である。後の弥太郎の活躍があるとはいえ、優れた領主より浪人の人気が高いのは不思議な気がするが、これには、土佐独特の事情がある。

そもそも、土佐藩は山内氏を藩主としているが、山内氏に国を奪われた長宗我部氏の人気が高い。その長宗我部氏の家臣であった一領具足(半農半士)の多くが、郷士(ごうし/下級の武士)という身分に改められ山内氏に仕えている。そして、長宗我部氏の血脈は、幕末まで受け継がれ、郷士は維新の志士となって活躍している。ゆえに、山内氏直系の家臣にも優秀な人材は多いにも関わらず、郷士出身者の人気が高い。同様に、安芸は戦国時代、安芸氏の領地だったところ。四国を平定統一した長宗我部氏に挑み、勇猛に闘った安芸國虎の人気は、今日においても変わりがない。それを日本人の人情の問題と言えばそれまでだが、浪人からの日本経済のトップに登りつめた弥太郎に、國虎の姿を重ねる安芸人がいても不思議ではない。つまり、國虎の夢を弥太郎が果たしたということ。
話が少し脇道にそれてしまったが、岩崎弥太郎生家は、今も保存、公開されている。当然ながら、地下浪人という身分のため土居郭中と呼ばれる武家屋敷の中ではない。西の田園地帯の一画にある。しかし、その屋敷を訪ねてみると、まず、違和感を覚える。かなり堂々とした構えの邸宅である。土居郭中の武家屋敷より敷地も広く、家の梁も太い。ただし、造りは農家風で、坪庭などに僅かに武家の香りがする程度である。言い伝えによれば、岩崎家は弥太郎の祖父の時代から地下浪人で、貧しかったということになっているが、その伝聞をそのまま信じるのは難しい。

生家の家屋は、農家造り。蔵などには入ることはできないが、庭や母屋の土間など、無料で自由に見学できる。
さりげなく配置されたように見える庭石だが、良く見ると日本列島を形どっている。この庭石が、弥太郎の夢の出発点とも言われている。
戦国時代、安芸氏の居城だったが、山内氏の時代には五藤氏の屋敷。現在、敷地内には、「書道美術館」と「歴史民俗資料館」がある。「書道美術館」では一字書で知られる手島右卿など多くの安芸市出身の書家の作品を見ることができる。

 弥太郎の母美和は、医師の娘だったが、両親は早逝、16歳の時に岩崎家に嫁いでいる。二人の兄は医師、姉は高名な儒学者の家に嫁いでいる。美和は、凛とした武士の妻らしい気風の女性で、弥太郎の教育にも熱心だったが、弥太郎自身の評判は腕白で「悪太郎」とあだ名されるほどだった。ただし、一方で、塾では才能を高く評価されている。つまり、悪童にして天才。弥太郎の弥太郎らしさは少年時代に完成されているような気がする。そもそも、悪童の評判は、弥太郎が武士の子供らしくなく、大勢の仲間を率いて田畑を駆け回っていた姿に由来している。今日においても安芸市の田園は豊かに広く美しい。好奇心の固まりの少年が、この田園を駆け回りたくなるのは当然と思えるのだが…。

田園地帯に建つ小さな時計台は安芸市のシンボル。野良時計の名の通り、野良仕事をする人々のための時計台で、畠中源馬氏が明治20年頃手作りしたもの。外観のみ見学可。
安芸城址の周辺に五藤氏家臣の屋敷跡を見ることができる。 現存する建物や垣根の造作などから、当時の武士の質実剛健の気風が感じられる。
土居郭中の中で、唯一公開されている武家屋敷。見学は無料。
商家か豪農の屋敷と思われる家が軒を連ねている。中を見学することはできないが、周辺を歩くだけで、充分に風情を満喫することができる。
市町村データ
安芸市(あきし):海・山・川に囲まれた県東部の拠点都市
安芸市 安芸市  
http://www.city.aki.kochi.jp